四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

楽しまないことを楽しむ深遠 ── カガワヨリ

現在はいやおうなく過去へ流れ去ってしまうね。
押入れの奥で深く眠っていたダンボール。そのなかに詰まった薄いA4ノートの束。あるいはもうログインIDすら忘れてしまったブログ。そこにある文字、大量の文字たちは、ものすごい密度と重量と湿り気をともなって、今もまだ眠っている。人によってはそれを黒歴史と呼ぶのかもしれないね。

ふと、なにかのタイミングで、パンドラの箱のような玉手箱のようなその封印を紐解くことを想像してみる。あふれだす言葉の隙間には『あの頃』の色や音がひしめきあっているイメージが広がる。たしかにその時にそこにあった鮮烈さと実感、急き立てられるようにうまれた訓練されていないけれども集中力をともなわせる技巧。そして直視しようにももう戻りたくはない、どす黒さに飲み込まれそうになるほどの暗く重い深遠。苦しみのなかでなぜ文字を書き続けたのか。逃れたかったのか、注視したかったのか。あの頃、自分がどういう心持ちでいたのか思いだそうとすることにも勇気がいるほどの暗がり。そんな時に書かれたものたちは、まだどこかの押し入れのどこかのダンボールや広大なネットの海で息をひそめて眠っている。

「このようなものを生み出せる私の人生の時期というのははっきり終わったのだな」という考えは、きっといろんな人が持っている。けれどもその考えにはどんな感情がともなわれているのか、自分ではよくわからない。人によっても違うんだろう。

 

すでに『あの頃』は過去になってしまった。

 

過去になったからといって、忘れるつもりはない。それは自分のこと以外の、世界のあらゆる恐ろしい出来事についても言える。
忘れてしまえば心は乱されず、言いかえれば「心を殺す」ことに近いかも知れず、傷つく心を守れるかもしれない。それは老獪であることかもしれない。でもその老獪さを文字にしようとするのならばそれは老獪にはなりきれておらず、もしくはあえて老獪さを他者にかいまみせるならそれはまたとても老獪なんじゃないか。これら老獪さにまつわる一連の自分のあさましさを自覚し、うまれる嫌悪感を引き受けて生きている人は信頼できるなと思える。自分の老獪さへの嫌悪と付き合おうとするなら、きっと生きることを諦めてはいないから。(信用はできないかもしれないけど。)

自己嫌悪を苦しみだととらえるか、それすらも楽しいととらえるかは、きっと性格によりそうだ。私は後者の傾向が人よりは強めだろうけれども、楽しさはけして喜びではないということも自覚している。

そう考えられることすら、さまざまな意味で健やかだと言う人もいるだろう。
もしくはひどく、非常に、健やかさを手放しているのだな、とも。

 

追伸

私も、谷崎潤一郎痴人の愛』は嫌いな小説のひとつです。これについて語ると悪口がとまらなくなるので、またいずれ(笑)

 

カガワヨリ