四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

忘れることにまつわるいくつかのこと ── カガワヨリ

2回目のワクチンを打った。
いまその待機室でこの文章を打っている。

大きなモニターには毛並みのいい猫のお尻のアナが大写しになっていて、振り込め詐欺の注意喚起がされている。なんで猫なのかはよくわからないけれど可愛いので見ちゃう。見ちゃうから、猫なのかしら。

ワクチンを打つと腕が腫れるとか重くなるとか言うけれど、いまのところは直後だからかそんなこともなく、「重い?」と言われればなんとなく、「重い……かも?」という気がしてくるくらい。想像副反応かな。人間の思い込みって怖い。なので副反応についてはできるだけ忘れるようにして、猫のお尻を見たり、この文字を打ったりしている。

けれどもまだ忘れていないのは、1回目のワクチン接種の時のことだ。熱こそ出なかったけれど注射されたあたりが硬く腫れ、皮膚の内側に鉄版を仕込まれたようだった。物質がわたしの身体のなかにいる……いるはずのないところに。これはまさに『質量』の感覚だったし、不思議なことに、反応が出たことが嬉しくもあった。身体が抵抗するほど副反応はひどくなるらしいから、なにか影響がでることはいいことなのかもしれないということもあるけれど、ただ単純に「ああ、ここに、いる」という安心感。

『デジタルとばかり触れ合っていると質量への憧憬が訪れる』というのはまさにそうで、このコロナ禍に入ってから「いかに生活のなかに質感を持ち込むか」というのがテーマのひとつになっている。庭先で野菜を育てること、自転車に空気を入れること、掃除中に階段に飾ってあるシルバニアファミリーに笑いかけること……そういった何気なかった日常のひとつひとつを、確かめるように、「わたしはこれをやってるぞ」って皮膚や指先や足の裏と相談するように、おこなうようになった。それはデジタルをはじめなんとなく人間の体温を離れて無機質になってしまった雰囲気への些細な抵抗の積み重ねだったと思う。今、ここにあることを、忘れてはいけない。そのために、踏みしめようとした。

同時に、今、ここにないものも欲しくなる。遠いどこかにいる友人の声はまさに、なんとなく(東京を?)包んでいるプレッシャーに、ピアスの針で風穴をあけるみたい。コロナ禍で閉じられた生活のなかで、この世界は実はもっと広かったことを忘れそうになるから、風を通して抵抗したい。

今、この手が確実に届くところ
今、この手は絶対に届かないところ

その両方を忘れないように確認することでバランスがやっととれるほど、きっとプレッシャーにゆるやかに押し潰されている。本来はどちらかひとつでも、もしくはどちらも無かったとしても、生きてはいけるはずなのに。

そんなところまで書いていたら、忘れようとしていた左腕に鈍い痛みのようなものを感じるようになった。痛み、と言い切るには心もとないくらいの違和感。いや、予感?、かな。
すこしずつ左腕の皮膚の下に『質量』が埋め込まれて、ふくらんでいるみたい。きっといつかこの左腕の皮膚の下にある物質の感覚を、忘れてしまうのかもしれない。ワクチンの副反応のことを。それは喜ばしいことなのか罪悪感を抱えることになるのかまだわからないまま、手のひらでそっとプレッシャーをかけるように、抵抗する左腕を包む。

 

カガワヨリ