四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

わたしは誰かに与えられたもので更新されていく ── カガワヨリ

ひさびさに出張というものをした。自分の時間はなく、朝早くから夜遅くまで連日、決められたスケジュールのなか。これはこれで新鮮だし、「あーコロナの状況が変わったんだなぁ」という感覚もあった。

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1000人未満の集落へ。
山道を数時間。数百年も続くお祭り。東京からの生活では考えられない価値観と肌感覚。インターネットで世界の人たちは近づいたような気がしていたけれど、これだけ感覚の違う日常を生きていたら、そりゃTwitterとかで揉めるよなぁとあらためて腑に落ちる。

その出張のあいだに「コーヒーを1日2~3杯飲む人は長生きするという研究があるよ」「おお、そうらしいね」なんて話を聞きながら、コーヒーを飲まない私は(へえ~)っとぼんやりしつつ、カフェインをとらない体質改善の話を思い出していたのでした。

人間の生活はかなりカフェインに支配されている。カフェインは『興奮作用を持つ、精神刺激薬である。覚醒作用、解熱鎮痛作用、強心作用、利尿作用を示す』だそう。どれも苦手なものなのであまり実感はないけれど、シャキッとするとなんだかどこかに歪みができそうな気がしている。けれどそれで寿命が伸びるんなら、もしかしたらカフェインは身体によくて、わたしの偏見だったのかもしれない。いや、身体に悪いから寿命がのびるのか。そもそも身体に良いとか悪いとかってどういうことなのか。よくわかってないんだな。

食事のもつ作用も、あまりよくはわかっていない。でも、献立表を書いて買い物にいくのが楽しい、というのはわかる。身体の状況を確認しながら進むような作業は、心地がいい。そういうことをしないと時間に飲み込まれていくような気がする。

出張のあいだは、いろんな地のものを食べた(というか、振る舞っていただいた)。姫りんご、塩イカ、ネギだれおでん、蕎麦、あまご……。献立にわたしの意志はほぼ介在しない。食事も仕事のスケジュールに組み込まれている(かろうじてお酒はお断りした)。自分で自分の体をコントロールできないすこしの不安と、誰かに自分の身体をコントロールしてもらう楽さのあいだを振れ動きながら、わたしの身体はその土地に更新された。

食事は、身体の更新作業だ。
良くなっているのか、悪くなっているのか、よくわからないけれど。だから年々若返っている気がするというあなたは、素敵だなと思う。

カガワヨリ

どうせ死ぬから抹茶クッキー  ── 雅季子

まあ栄養素は偏るしおなかもすくし、栄養を不足させることによってリカバリをかけていく民間療法というか、そういう自分を自覚するためにやるので、無理そうだなと思う気持ちが強いときはやらない方がいい。ものには時期がある。私も、長年の友人がこの節制プログラムをやっているのを知ったのは4年くらい前で、そのときは私はすごいヘビースモーカーだったし煙草も煙草もコーヒーも紅茶もだめなんて絶対無理! と思ったから横目に見るだけだった。煙草をやめて二年四か月が経ち、なんとなく今かなと思ったのでやってみただけ。

 

事前準備として冷蔵庫の食材を一週間以上かけて全部使い切り、空っぽにして臨んだのだけどその過程は楽しかった。十日間は今日で終わりで、辛い期間がほとんどだったけれど、梅干しの味が強く感じられすぎるようになって最後の二日は玄米と塩しか食べずに済んだ。普通の食事ではどんなにがんばっても落とせなかった境地に体重が落ち、ひとまわりすっきりした。しばらく舌は荒れたけれど、八日目を過ぎた朝、急に肌が内側から白く光っているような気がしてびっくりした。まあでも、それくらいだよ。たぶん、十日の間もバレエクラスを休まなかったのが良かったんだと思うけど。明日からは回復食といって、何も入れない味噌汁を食事に足すところから三日かけて生活を戻していく。小学生みたいに、献立表を書いてスーパーマーケットに買い物に行くのを楽しみにしている。

 

そうね、不調。……体の不調ね。私は不思議だけど、禁煙したせいもあるのか、今がいちばん、毎年若返っている気がする。3~4年前が「どん底」の「ピーク」……って深いのか高いのかどっちかわからなくておかしくない? って考える余裕があるくらいには今はすこやか。

 

ただ心が身の回りの陳腐さに耐えられないということはある。若さに任せて居場所を飛び出せるような年齢では確かにないからね。いちばん怒りと軽蔑を燃やしてしまう相手には、何か言うと外堀を埋められて脅しのようなことをされるだろうと思うので、私の感情はもう出せない。ここに少し書くぐらい。でも今のところはそれで済んでいる。今すぐ落とし前つけなくてもいいかなって。年取って気が長くなったのかもしれないわね、焦ってもどうせいつか終わるから、って。

 

去年京都に行ったとき「どうせ死ぬのにおみやげなんか(東京に)買いたくない」と友人の前でぼやいたら「どうせ死ぬからおみやげ買うのよ!」と抹茶チョコレートサンドクッキーの箱を持たされたのを思い出した。抹茶もチョコレートも、しばらく食べていないことを思い出して、今さら急にあのクッキーが恋しくなっている。

5000歩のその先 ── カガワヨリ

10年ぶりくらいの激しさで声を荒げてしまった。

感情をコントロールできなかったとはいえ、あまりに極端に振りきってしまうともう反省などはなく、「こんなに爆発するまでなってしまったのはさすがに周りが悪い」とさえ思う。そう開き直りながら、心のすきま風がすいすいするので気晴らしに食後の夜散歩に出た。いま歩きながらこれを書いている。

玄米を10日間食べる生活というのを教えてもらって、そういうので体内をデトックスするのもいいかもしれない。ただ、栄養素が偏ると、心も身体も今の私はすぐに片寄ってしまって暴発してしまうかもという不安がある。空腹を感じただけでパソコンをうつ指先が震え、デスクトップをかちわってしまいそうだ。

30代、みんな同じでどこか不調。
という標語みたいな悲しい事実を見かけた。不正出血やら、自律神経やら、偏頭痛やら、頻尿やら、短時間睡眠やら、そもそも基本となる筋肉や関節が痛みやすい。すぐ痛む。あれよあれよと痛む。むかし整形外科で「関節がすり減るのは老化だから。これからどんどんすり減るから。仕方ない」と残酷な告知を受けた。その時がやってきている。

そんな未来の現実に少しでもあらがおうと、夕食後の散歩を日課にしかけている。かけている、というのは達成率が2/3くらいだから。まぁ、微々たるものだけどやらないよりはマシかぁ。

歩いていると腸が刺激されてガスが出て、なんとなく内臓のデトックスになっている気もする……なんて、楽観的な言い訳かもしれない。とか考えているうちに5000歩歩いた。

けれどもやっぱり内臓を綺麗にするには食事かしら。玄米10日生活、その成果をまたぜひ教えてほしい。


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──すこしだけクリスマス先取りみたいなおうちを見つけて。

 

カガワヨリ

制限の日々  ── 雅季子

四季と死期。良く映える対比だ。ついでに士気を高めて指揮を執り私記を書くこともできる。月経は毎月おとずれる死じゃないのかしら。一度死ぬとも、また生まれ直すとも考えていいけれどここ数年は、自分から新しい命が生まれる想像をすることがなくなった。物質的な実体から半分抜けて、観念の世界に来てしまったようだ。そんなわけで、生きててよかったと思うことは多くあるが生きてるって最高だなとは思ったことがない。ここまで生かしてもらっておきながら与えられた命を冒涜しつづけているのか……? もちろんそうではない。

 

玄米のみで十日間過ごす生活をしている。七号食といって、量の制限はないけれど口にしていいのが玄米と梅干とノンカフェインのお茶のみ、というもの。お茶も飽きるので白湯を飲んでいます。

 

始めて6日目なんだけど、まず辛かったのは初日と二日目に襲ってきたカフェインの離脱症状と思われる世界の終わりみたいな頭痛。もともと偏頭痛持ちだけれど輪をかけて酷かった。目を開けていられないくらい痛かった。空腹のせいじゃない、絶対に、コーヒーか紅茶をひとくち飲めばすぐかならず治ると直感したんだけど意地を通して飲まなかった。そんなめちゃくちゃな頭痛と少しの眠気にうとうとして、命からがら帰宅して脈打つ頸動脈に保冷剤を当てて寝た。冷却シートも額に貼った。翌朝はあまりの頭痛のために遅刻し、必須の用件だけ済ませて早退した。その間も玄米を食むのは苦にならなかったけれど、とにかく飲みものに含まれるあの物質がこんなに血管の中を巡って染みわたっていたとは知らなかったわ。頭痛はまる二日続いて、三日目の朝に嘘みたいに抜けた。台風一過の晴天のようだった。

 

これまで余計な間食をしすぎていたとは思わない。ただ、消化のために玄米を普段の何倍もの時間をかけて咀嚼していると、自分が自分の食事を蔑ろにしてきて、丸飲み……とまでは行かないけれど何かに追い立てられるように飲み下していたことがよくわかった。オフィスにいる誰かに遠慮して、ついたてがあっても私、本当に気ぜわしく食事をしていたんだわ。同じ空気を体に入れたくない、なるべくリラックスしたくない、隙を見せたくない、そんなふうに肩に力が入った状態でずっとずっと過ごしていたんだわ。だから今日は、玄米と梅干だけ詰めたお弁当箱を持ってお昼は外に出た。近くの小学校の隣に公園があって、ベンチがあって、少し日陰だったけれど今日はそこにすわって25分かけて、お弁当箱の中の玄米を食べた。水筒にいれてきたミントティーも飲んだ。梅干しの味が前より強く感じられるようになって、玄米もぽろぽろ甘くていやだと思っていたけれど何となくこの味気無さが美味しいと思えるくらいには気持ちが落ち着いた。

 

そういえば昨日、劇場の帰りにYK氏とスタバに行って、デカフェの豆を挽いてもらってコーヒーを飲んだ。ミルクはもちろん抜き。すごく美味しくて満足したけれど苦みがずっと口の中に残って、そうそう、コーヒーってこういうものだった、もう気が済んだ、と思った。

 

それで今何が食べたいって、生クリームのケーキよ。おかずやお味噌汁、パンやうどんももちろん食べたいわ。でも何の写真を見るのが辛いかっていうとパフェとか新作のケーキ、あとアイスクリーム! そんなに毎日食べていたわけじゃないんだけれど、うつくしくて甘いお菓子を、ほんのひとくちでいいから味わいたいわ。今週末にかけて断食から回復食に移行するので、様子を見て、少量なら食べられるかもしれない。奪われてすぐにはわからないことだったけれど、時間が経ってみるとこうした余剰なカロリーを持つ装飾的なお菓子こそ人生の喜びであることが分かるわね。

あなたからは金木犀の香りがする ── カガワヨリ

金木犀は自然に生えない。人の手によって植えられ、増やされてきた。金木犀は自分で増えることができないから、香りで人間を惑わし増やさせたのかもしれない。という話をTwitterで見かけて、それは人間のことだと思った。なにかに寄生して、美しいようなフリをして繁殖していく。その醜さゆえに美しい。
一人ではどうしようもできなくて、死んでしまったらなにもかも終わりじゃないかという暗闇にとらわれ、なんとか誰かや何かに影響を与えてもらいながら生を消費している。「生きてるって最高!」というフリをしながら。

そんなもんだから、もし私に友達がなくなり、仕事がなくなり、家がなくなり、体も心もそこなわれたら、どうなるのか。皆目検討がつかない。なにかを書きたいと思うんだろか。いや。なんかもういろいろやる気がなくなって生活保護に頼りまくって屍のように虚ろになるかもしれないな。うまいこと刑務所に入れるような人を殺さない犯罪がおかせないかと小狡いことを考えるかもしれない。いやでもやっぱり、どこかの路上で生きながらえながら、チラシの切れ端の裏にインクの少ないボールペンでなにかを書き連ねるのかも。そんな気もする。

だから、なんの自信か「これがわたしの大切なものだ」言い切れる人に会うと、感嘆してしまう。憧れとかじゃかなく、ただ素直に「わーお」とその眩しさに見入ってしまう。わたしはきっと、迷うから。自分の一番芯に残るものなんてわからない。

 

ああ、金木犀の香りがかぎたいな。

甘ったるい橙色の香りは、ふわっと季節の移り変わりを知らせてくれる。忘れていた四季にハッとする。

書くこともそれに近いかもしれない。つらつらと文字を連ねていると、行間からふわっと甘美な匂いが立ちのぼる。生きている感覚が、そこに。そして忘れていた死期にハッとする。

 

その恐ろしさを追い払おうと、さらに書く。
目を背けるため私はフリをするのだ。

 

生きてるって最高!

 


……生理痛で眠れぬ夜長に。
(これって生の痛みだよね?)

 

カガワヨリ

最初と最後に選ぶもの ── 雅季子

まあそうだ。物書きでいたいか、とか、あなたは物書きとして生まれたのか、と問われて、ふたつの問いは根源的に異なるけれど、いずれにしてもイエスと答えるようなやつはとりあえず疑ってかかったほうがいい。でも、あなたが友達をなくし仕事をなくし家をなくし体も心もそこなったときに最後までやめないものって何。あなたがお祈りと同じくらい大切におもって自然におこなっていることって何。そういうことを訊いたときにわりと躊躇いなくひとつの答えを言う人って、結構いるって実感しない?なんでそんなこと聞くんだ、と言わんばかりにその人にとっての「最後の選択肢」、あるいは生まれ持った「最初の選択肢」を教えてくれること、たまにない?

先週、久しぶりに地下鉄のホームで、他人にひじで突き返されて悲しかった。私より20年くらい先に生まれていそうな年齢で、頑丈な男の体を持った人間だった。服装は茶色いジャンパーに黒いハンチング帽子。正気を失いそうなくらい怒りが湧いたからよく見て覚えてしまったの。その人が私を押した理由はわからない。私の大きなバッグが視界の邪魔になったのかもしれないし、物理的に当たってしまったのかも。過去には、朝の通勤時に女性に鞄で叩かれたこともある。降りる直前にわざわざ近寄ってきて私を突き飛ばしていった。ああいうときって怖いとかびっくりするより、やっぱり悲しい。悪意が剥き出しにされて、攻撃の意図がほかならぬ自分に向いているという事実があるわけで、そんな意図を抱かれる自分はわるい人間なのだろうかという気にさせられるから。悪意と欲望は異なるけど、区別は難しい。表出したもので見分けなければならないとしたらますます。

ところでホルモンバランスが整わないせいかマスクのせいか、肌荒れが酷くなってとてもストレスなの。肌荒れの直し方を調べるんだけどいつも「ストレスのない生活を心がけましょう」と書いてあって、肌荒れ自体がストレスなので何の解決にもならないどころか、解決しないというストレスがまた溜まるわ。

嬉しい話もしよう。急に秋が深くなってきて、寒いのが好きな私は嬉しい。今年は金木犀が返り咲きしたの、気が付いた? 9月半ばに咲いて10月の初めにもう一度咲いたのよ。早くもっと寒くなって、北風を感じながら駅から家までの長い道を、歩きたい。私は秋の初めに生まれて、世界が寒さに向かうさなかに赤子としていちばん大きくなったから、寒さが募るほど強くなれるの。

渡り鳥の欲望は──カガワヨリ

物書きでいたいのか、というと自信を持ってそうだとは言えないなぁと、ぼんやり歩きながら思った。
物を書くことは、私にとって走ることに似ている。べつに歩いてたってどこにでも行けるし誰かに会いにも行けるけれど、走った方がすぐに行けるしすぐに会える。行きたかったり、会いたかったりする私は、走りだしてしまう。たぶん一輪車に乗るのがうまかったら一輪車に乗ってるし、スケボーが怖くなければスケボーに、セグウェイに憧れればセグウェイに、乗っているような気がする。眠りたければ、走りも歩きもせずに、寝るだろうな。
でも今のところ走ってしまうことが多いので、どうせ走るのならうまく、できるだけ疲れず走りたい。

高くまで登っていく鳥は、なんの鳥だろう。
渡り鳥かな。身体の大きな、軽やかには飛べなさそうな鳥も、ある時期になると遠くまで渡っていくよね。まるで季節も行き先もわかっているかのように。
燕が低く飛んだら雨がくる、という言葉もあるね。昨日は雨、明日も雨。その狭間の今日はいろんな場所で燕が低く飛んでいるかもしれない。雨の匂いがわかるんだろうかね。

人間はあんまりいろんなことがわかっていない気がするよ。頭をよぎった考えや、袖すり合ったぬくもりや、今夜のいびつな明るいお月様を忘れずにおきたくて、言葉を書くのかもしれない。

本当は、渡り鳥のように自分が書くべき時に書き、燕のように雨の匂いを感じたら書きたい。

でも今この瞬間に感じていることを、日々の墓標ですらなくこの一瞬の墓標を書き留めるとしたら、電車で隣に座ってるおじさんのおっぴろげた足にボールペン突き刺したい苛立ちと強烈な空腹。そんなふうに身体の欲望が残っていってしまうな。

 

カガワヨリ