四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

質量との激闘 ── 雅季子

羊雲、綺麗ね。このあたりでは金木犀が咲き始めている。今年は香りより先にオレンジの花がまばらに開きつつあるのが目に入って、それで気づいた。マスクのせいもあって香りを感じにくい。もっと言えば、香りを感じ取れないことで季節との距離を見積もりそこねる。

 

リモートミーティングやリモート取材が選択肢として当たり前になるようになってもう一年半が経つ。私は危険にさらされながらも週に3日か4日は必ず通勤電車に乗ってオフィスに行っているけれど、フルリモートで仕事をしている人から「精神がかなり限界」という言葉を先日聞いた。「デジタルとばかり触れ合っていると質量への憧憬が訪れるらしいですよ」と伝えたら「まさにそう」だと。かつての対面の経験がまだ頭に残っているうちは、いずれリカバリも可能かもしれないけれどその経験もどんどん過去になるまま私たちの時間は流れてしまうね。カガワヨリもリモートの仕事が多いだろうから、だいぶ、そのデメリットの方に心身引きずられていやしないかと心配している。

 

質量的なるものとの距離感がわからなくなっているという感覚は、緊急事態宣言の出続けていることが通常事態となった2021年春ごろからずっとあって、改めて深刻に自身に迫って感じられたのは東京オリンピックが7月23日に開幕してからだ。あのときから、東京とほかの地域の分断がさらに顕在化して、感染者も増え続けているのにほどこされる政策は何も変わらない、その上メダルラッシュなんてニュースで流れちゃって都民は浮かれているんじゃないかと思われている、思われてはいないかもしれないけど、東京、何か変なことになってんなあとは思われているだろうという圧力をひしひしと感じ、その圧力すら被害妄想かもしれず、でもそうした東京23区のとりわけ中央部で暮らす悲壮感は東京23区のとりわけ中央部で暮らさない人にはわかってもらえないともわかっていた。どんなに都が毒親でも、私には毒親のもとで働いて暮らすしか選択肢がないし、疎開する縁もどこにもない。

 

東京都からの虐待が、私を蝕んだ何度目かのピークが今夏だったというわけだ。そんなわけで意識的に東京ではない場所に住む友だちに電話をかけたりして「そっちはどう?」なんて聞きあったりしていた。そうしているうちに、冒頭で書いた質量的距離感の喪失が少しずつ回復するのを感じた。交わす言葉に重みをもたせることによって、そういうことができる相手との対話によって、無くした身体的な質量をとらえなおしていった。

 

イタリアに住んでいる友だちとも、何度かzoomで話した。その日は、フェミニズムにまつわるかなり重要な話をあれこれして、日本は真夜中になって、そろそろ私は眠って彼女は夕飯をつくろうかなんて話をしていたところ……だったんだけど、まさにその時、私の部屋に大きな害虫があらわれてしまったのよね。万全の対策を期しているはずなのに、よりによってその日あらわれてしまったのよ……。iPhoneでzoomをつないだまま私は狼狽し、何とか退治しなければと思った。

 

「まきちゃん何持ってるの?」揺れる画面越しに友だちが言う。「台所洗剤。一撃必殺系のスプレーがないのよ。これでやるしかないわ」答えて私は害虫との戦いに向かった。「無理無理無理怖い怖い怖い死んだ?死んだ?生きてる生きてるやばいやばいやばいねえほんと無理」と声を上げながらなんとか洗剤で、息の根を止めるところまで追いつめた。液体洗剤まみれの床の掃除をどうしようと思ったけれどそんなことより目の前の物体をどうにかしなければ。ここは私の家なのだ。ここに他人はいないのだ。私がやらなければこの状況はどうにもならない。「まきちゃんがんばって!!イタリアにはそいつは出ないんだけど、あたしも日本に帰ったらまた見る日が来るのかなあ」。イタリアからの応援を背に受け、私は物体の死を確認した。「どうすればいい?ねえどうすればいい?」狼狽し続ける私に友だちは、ティッシュをかぶせてちりとりで取り、トイレに流せ、と言った。

 

「待ってすごい怖い。動いたりしないかな。ねえ、そこにいてね。私が取り終わるまでそこにいてね?」「うんうん、いるよ。ここにいるよ」

 

東京とイタリアで「怖いからそこにいて」「大丈夫、ここにいるよ」という会話が成立するのが可笑しかった。しかしそんなことで死んだ物体は消滅しない。こいつはバーチャルでもリモートでも何でもない。「がんばって。今がんばったらきっと未来の自分が『ありがとう』って言ってくれるはず」と友だちが言ってくれた。トイレに流してしまうアイデアは自分ひとりでは浮かばなかったものなので(せいぜい二重にくるんで玄関の外に放り出すくらい)絶対にやり遂げるという固い意志を持ち、苦闘5,6分、私はついに物体を下水道という名の冥界へ送り込んだ。「やった!やったよ!本当に今、さっきの過去の自分にありがとうって思ってる!」と私は彼女に喜びを伝え、彼女も心からわたしの戦いぶりを讃えてくれた。それでお互いおやすみ、よい夜を、と言いあって画面をオフにした。

 

床に広がった液体洗剤をせっせと拭きながら、遠いはずのイタリアを近くに感じて何だか嬉しかった。そして少し心を落ち着かせてから眠り、翌日新しい害虫対策スプレーを2本買いに行った。気の抜けない日々は続く。