四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

偏屈な女の質疑応答 ── 雅季子

斜め読みはしなかったけれど忘れはするかもしれない。でも忘れたらまた読めばいいのだ。そのために私たちはここに日記を書き残しているのだから。

 

主観と客観という言葉の意味がわからない。カガワヨリが言わんとしていることはわかるけれど主観と客観に翻弄される人間たちの存在があまり、ほとんど実感できない。ということはカガワヨリが言わんとしたことも本当にはわかっていないだろう。それで、辞書を引いた。

 

主観 ①物事を考えるわれわれの心の働き。「自然は--を離れて存在する」②自分ひとりの(かたよった)考え【--的な】[物事についての判断の仕方が]当人の直観や推論に頼る傾向が強く、一定の基準や当人以外の人にもそう認められる事実の裏付けを欠く様子。

 

客観 自分が意識しなくても、客体としてだれでもその存在を認めることが出来るすべて。【--的】見方が公正であったり、考え方が論理的であったりして、多くの人に理解・納得される様子。

 

みたいなことが書いてあって、へえ、じゃあ自分ひとりの考えだとしても公正であったり論理的であったりして多くの人に理解・納得されたらそれは何なのだ、と思った。むしろ私はいつでもそういうふうにありたいことに精一杯なので、そのようであろうと努めない者のことはけっこうどうでもいいと心底思っているんだなと分かった。表に出す前に、自分の内側で精査しきることを重視しているから、何か誰かと比べる意味を感じないのかもしれない。どこまでやっても不完全な内側の精査に、いそしむあまり。

 

中学生の頃わりと頻繁に、電車、学校、道行くすべての人の今この瞬間の先には私とは別の生活がありその網目を想像するとめまいがするような気持ちがして、自分以外の人が生きているということが私にはぜんぜんわからない、と途方に暮れていたことを思い出した。

 

どうでもいいというのは、自分が左右されないというだけのことであって排除の意味ではない。もちろん、深いレベルでの信仰が異なるかのような苦しみを他者とのコミュニケーションでいつも感じるけれど、自分にとっての非論理とも対話する知性はどのように構築可能であるのかいつでも考えていたい。その過程で私は何らかの断定を用いるかもしれないが、間違いを犯したら間違った自分になんとか気づいて、あるいは教えてもらって、正す。だから真っ当な批判に耳を傾ける分別を常に持つ。間違ったことによって他者を傷つけたならすぐに謝る。身体が固ければ毎日ストレッチをするし、高く跳べるように何度でも床を蹴る練習をする。

 

人の気持ちがとにかくわからないし、想像することができないので、演出されたものを見て紐解くのは性に合っている。10年近く前だったか、母に「あなたはそんなに小説を読んでいるのにどうして他人の気持ちがわからないの」となじられて困ったが、私に言わせればどれだけ生きても他人の気持ちがわからないから小説を読むし、演劇を観るのである。

 

今日観にいった演劇の展示ではアンケートにたくさんの項目があった。来場した人の数だけの回答が寄せられたことだろうと思う。備忘として私の回答をいくつか書いておく。

 

質問:あなたにとって会話とは何ですか?

私の答え:沈黙に耐えられない人の時間に付き合うためのもの

 

質問:最近、心よりも先に身体が動いたことは何ですか?

私の答え:部屋に侵入したカメムシと戦ったこと

 

質問:あなたが昔から不思議だな、なぜなのかなと思っていることは何ですか?

私の答え:人間の大きさはなぜだいたい150センチ~180センチくらいなのか(3センチとか7メートルとかでなく)

 

ああ、カガワヨリからの質問にも答えなくては。

 

質問:あなたは、プライベートな関係の人に一般論で返されたらどう思う?

私の答え:一般論しか言えない相手に幻滅し、その悲しみをブログに書いたりする。物事を一般化して論じることは単純化することとほぼ同義で、つまりその人は私の投げかけた複雑性を処理しきれないことが露呈されたからである。