四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

覚えていることと忘れることの比較検討 ── 雅季子

コーンフレークを切らしたのでフルーツグラノーラを食べている。ヨーグルトに乗せて食べるという思い込みがあったのでわざわざ牛乳のかわりにヨーグルトを買い、混ぜて食べているが、食べながらパッケージを見たら「牛乳200mlをかけた場合」の栄養価が書いてあって、牛乳をかけるほうがスタンダードなのだと知った。コーンフレークと同じだ。ヨーグルトの方が低GI食品のような気がするけれど、低GIの「GI」は何の略なのか知らない。調べようとは思わない。疑問というものは調べるために持つだけがその効能ではないからである。

 

「ログインIDを忘れたブログ」という言葉で自分自身を顧みたが、今までに開設したブログにおいてログインIDやパスワードを忘れたら、私は何とか設定しなおしアクセス可能な状態を保ってきた。18年前のブログに今でもアクセスできるので記憶を呼び覚ますのも容易だが、人物描写をぼかしてあることが多く、嘘めいたことも織り交ぜてきたために何が本当にあったことだったか、あるいは誰のことを書いているか判然としないものもある。17歳から19歳まで書いていたウェブ日記はある日突然、堀江貴文の会社に買収されて無くなり失われた。以来、そのことにおいてのみ私はあの拝金主義者を恨んでいる。

 

過去の原稿も全部DropBoxに上げていて、天の思し召しによって失われた極めて数少ないデータ以外、物書き人生で書いたもののほぼすべてが(自分だけに)閲覧可能な状態となっている。残したいというより、失えないのである。過去のものとすることはできるしいつでもそうしているつもりだが、どんなものであれ自分の書いたものを棄てることができない。愛じゃなくて業が深い。まあそういうことなんだろう。そして書いたもの以外「忘れる」。書いたそばから忘れるし、書かなかったら忘れるから書く。忘れないということは逐一思い出す作業であるので、書き残していない期間のことは思い出せない。

 

しかし「言葉にまだできない」と思うまま忘却してしまうことは避けたい。その「まだ」は「いつ」来るのか、うかうかしていたら死んでしまいかねない2021年初秋だ。ウイルスに、災害に、政治に殺される可能性が誰にも等しく迫っている、とは書いてみたが実際は等しくなんかぜんぜんないなと思って傲慢だと感じる。いちいち自己嫌悪することすら傲慢なので、もっと、そういうだめな自分にがっかりする時間に身をゆだねたい。

 

がっかりする自分、分断をあきらめることのできる自分、あきらめた上で実践を重ねる身体性を構築するために今、私はクラシックバレエに打ち込むことが必要だと感じているんだけど、その話はまたいずれ。

 

ところであなたはよく「人によっても違うんだろうね」と言うけれど、私はそんなことはどうでもよくて、なぜかというとどうでもいい相手のことは自分で観察したり無視したりして判断するので、私があなたに訊くときはじゃああなたはどうなのかってことを訊いてるわけなのよね。それは私のおとめ座っぽい性格という非科学的な理由にさせてほしく、あなたにとってこの態度がだいぶ頑固に見えるのが申し訳ないとは一応かなり思っている。ただなぜそんなに「人によって違う」という(私にとってはきわめて)当たり前のことをいちいち注釈として用いるのか、一度尋ねたいと思っていたので今尋ねた。思い返せばいつでもその注釈のあとにきちんとカガワヨリは、カガワヨリの考えを述べていることも覚えてはいるんだけど。