四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

己の老獪さを自覚し嫌悪する ── 雅季子

女がいやいやながらも何かに付き合ってくれるのは、ちゃんとその相手をいとしいとか可愛いと思っているからだが、男が嫌そうな態度を見せるときは本当に嫌だという意味で、それはもちろん見る側には透けて見えている。そのかわり、男が嬉しそうな顔をするときも本当に嬉しいのだろうなと思うので安心はする。なので些細な後悔や郷愁を長い文章にしたためて読んでもらえた、そして打ち返してもらえた、ということ、その印そのものが当時の彼には嬉しく、そのことに嘘はなかったのだろうと思うし、ただどちらかと言えばそういう類の男は、カガワヨリが夜中にうんうん唸って受け止め返信を真摯に考えたということには思い至らず、短くてもすぐに返信をくれた女のことのほうを覚えているのではないか。そういう感じがする。「読んでしまった」と悩むカガワヨリのある種の誠実さが、自分にきちんと向けられていると認識できているような印象はあまりない。「何がしたいかわからない人だな」と、あなたのかつての恋人にきわめて乾いた印象を持ってしまったことを詫びる。まあ、取り急ぎ形の上でだけ詫びる。

 

谷崎潤一郎の『痴人の愛』は嫌いな小説のひとつだが、昨日気が向いてページを少し繰った。この物語そのものが、男の壮大なるプレイなのかどうか。自己の輪郭を語りに溶かしながら、男は何を思っていたのだろうか。「何がしたいかわからない」という言葉は、この小説の男と女にも当てはまる。しかし私に言わせれば「何がしたいかわからない」人々は、「したい事」はなくても「したくない事」はあるのだ。小説の男は、女に逃げられたくなかったという一点に尽きる。だから考えていて、カガワヨリの元恋人の「したくなかった事」は何だったんだろうと思いかけたが別にそこまで私が考える義理もないだろうと思ってやめた。

 

私の書いた手紙というのは、いつも詳しい心情の説明、補足、すぐには言えなかった言葉の伝達手段であって、残念だけどそのようにして私が欲しかった言葉に答えてくれた人間というのはかつていない。いや一人くらいはいるかもしれない。それはまた別の機会に書くこともあるだろうが、どうでもいいものこそ言葉にしたいし観にいきたいのであって、まあ観にいきたいというのは演劇の話だけれど、ともかく重要であるとその意義を分かっているものをわざわざ描写する意味なんて、語弊を恐れずになんていうのは無理だから語弊を恐れつつ言うが、まあ、ほとんどない。少なくとも個人的な人間同士の関係においては。

 

どんな人でも、健やかであってくれさえすればいい世の中である。健やかでなくなったときに速やかに復帰できるような世の中であればもっといい。何かしら言葉を書けるという状態は健やかであるということだ。もちろん健やかでないゆえに書かれたものもある。私にもそういう時代があった。読み返すと狂気じみているかわりに、二度と書けない鮮烈さと実感、技巧に満ちていて、ああ、このようなものを生み出せる私の人生の時期というのははっきり終わったのだなと昨日思った。それで昨日はこの交換日記を書くのを一日休んだ。

 

140字じゃ伝わらないことが多すぎて情報収集をせずに生きるのが精神衛生上いちばんいいんだろう。だがその無知に振り切る勇気はなく、そのあさましさに自己嫌悪しながら、次に良いのは何かを主体的に楽しむプレイヤーとなることだとうっすら想像はつくが、何かを主体的に楽しんでしまうことが、今どこかで誰かが苦しんでいることを忘れる罪悪感ととつながってしまう気がする。無知であってはいけないという思考に縛られて苦しむくらいなら無知であってもいいのではないか、という考えもあるだろう。でもうまく言えないんだけれど、無知であるくらいなら私は、無知であってはいけないという思考に苦しむ道を選びたいのだ。いいや、本当はずっとそうだった、私たちが少女時代を送っているときにはルワンダの内戦があって、阪神大震災で苦しんでいる人がいて、アフガニスタンには混乱が続いて、東日本大震災の哀しみと屈辱は到底癒えなくて、でもそれと、身近な、愛する人感染症で死んでしまうかもしれないから彼らを守れますようにと祈ってしまう自分の心情を単なるエゴイズムだなんて私には切り捨てられない。でも、本当の肝心なときは心を殺すのが老獪な人間なのだとしたら、やっぱり私はすでに老獪な人間なんだろうとも思う。

 

雅季子