四姉妹からの手紙

2人の物書きの往復書簡です

日々の墓標 ── 雅季子

書くべきものに追われているときは、締め切りのある原稿よりも、自由意志で書くものを、ほんの少しの量でいいから先に書いた方がいいんだと思う。そうでないと、請われたものしか外に出せなくなる。なんだっけなあ、いつかこの日記でも「聞かれてないからそれには答えなかった」みたいなこと書いてなかった? そのことを最近また思い出していた。それは重要なスタンスであると同時に、自発的に自分から出てくるものを表に出さない習慣もつけてしまうから、そのうち自発的に感じることもなくなっていくんじゃないかなって思っただけ。一般に、人というものは。

 

葉書を見て、そういえばあなたの手書きの文字をほとんど見たことなかったなと思った。私がどんな字を書くかも、あなたの目の前で書いてみせたことがあったか思い出せないわ。筆跡を知らないままずっと年を重ねてゆける時代よね。いつだかバースデーメッセージカードは、届けたかもしれない……今度なにか、そう、年賀状でも。あっという間にそういう季節になるだろうから。

 

どんな原稿も私は必ず手で、ノートかルーズリーフに書くところから始める。文字数が数百と決められているときでもいきなりPCに打ち込むことはないのです。少しのまとまりを、手書きで、シャープペンシルと二重線、ときどきの消しゴムで作ってから転写して整えていく。時間はかかるし紙と筆記用具は必須だし、積み重なった過去の紙たちが家のどこにでも散乱しているし、とはいえ結果的に手書きの材料があるほうが原稿には厚みが出る。でもこれは私の話。iPhoneフリック入力で適切かつ的確な文章を書く人も少なくない数知っている。

 

なぜかブログはあまり下書きしないな。書き出しと終わりを決めてメモしておくことはあるけど。こうして二人称で喋りかける文体が私はいちばんスムースに出てくるから、そのまま話すときの唇の動きで指先を動かせばいい。

 

蝶々を見たのね。私は、9階建のビルの9階に勤めているんだけど、ときどきベランダ(というにはあまりに危ない、転落と背中合わせのスペース)の手すりに鳥がくるの。カツ、カツと脚が金属の手すりをたたく音と、ぴちぴちぴいぴい鳴く声がするので気づいた。鳥のとまるような木の枝など目も眩むほど遥か下なのに、こんな高い場所まで何しにきたのかしらって思うんだけど、もしかしたら私がベランダに置いているプランターの雑草をついばみに来ているのかもしれないわ。任意の大きさの身体を持つ生き物がいる場所として、どのくらいの高さまでが適切なのかは、そういうときたまに考える。蝶々は地面の水を吸うこともあるようだから、地面でつがいになるのも、不思議じゃないわね。

 

まあだから、そういう小さなことでいいからなんでも書いておくのがいいのよ。物書きでいたいんだったらね。私は書き残したこと以外は忘れるから、なるべくたくさん書きたいというだけ。行き急ぐ日々の墓標として。今より前の記憶なんかほとんどないから、あなたが書き継いでくれなかったらいつも独り言からのやり直しだわ。